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書くことの不純 [本]

最近読んでた本です。

書くことの不純 (単行本)

書くことの不純 (単行本)

  • 作者: 角幡 唯介
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2024/01/22
  • メディア: 単行本

角幡唯介の本。探検する人は普通書くことを前提にしていないけれど、書くことが職業となった自分は、書き手の自分が探検する自分に探検中にちょっかいを出してきて、探検の中でこうしたほうがもっと面白いものになるのはないかと考え始める。書くことが探検する行為にとって不純だ、と言っている。

沢木耕太郎の「深夜特急」のことを角幡が沢木と対談した時質問したらしい。沢木は作品にする意図はなく日記もつけていず後からメモを頼りに書いたと言っていたが、角幡は作家である以上いつか書けるかもという意識が全く働かなかったはずがないと言う。夢枕莫の「神々の山嶺」の例を出し本当にやりたい登山をする羽生=内在的行為に生きる羽生と、世間的な目を気にして生きる深町=関係的に生きる深町を引き合いに出す。また芸術的な冒険ということでクルティカの名前を挙げている。到達を優先させる旅なのか、狩りや釣りを通じ大地そのものと結びつく旅なのか。角幡も後者を自らの旅に選んでいる。

三島由紀夫の「金閣寺」にも触れ「はみ出し理論」を展開。本筋系の登山家はエベレストや7大陸最高峰みたいなものに飛びつく登山家を胡散臭いと感じていて、それは山に対する不純さにあると言う。ただ純粋さを目指す登山は内なる衝動から発していて外の体系から次第にずれはみだす宿命を背負っている。金閣寺を焼いた溝口は自死するつもりだったのにそれを変更して生きることに決めたが、そのラストが小説からはみ出していると。三島の生き方にも触れ、肉体改造が「言葉ではその何かに絶対に届かない」=「実在の精髄」でこれは「死の余白」「自分の山」と同じで、どんなに山を極めてもその一歩手前までしかたどり着けず、たどり着くことができるのは遭難死したときだ、と角幡が言う。また開高健がベトナム戦争に加わった後釣り三昧に転じたが、角幡も狩りや釣りを自らすることで見えてきたものが違うという。登山者よりはるかに土地と一体化するということで、開高はわかっていたが三島はそれを言葉の上でしかわかっていなかったような気がするという。

猪瀬直樹の本に「奔馬ー豊饒の海第2巻」で飯沼に宇気比という占いの秘儀をさせなかったのは、三島の自死もスケジュールを練って実行させていたはずと指摘しており、三島の神輿論や肉体透明論も言葉の上での理解しかなかったのではと角幡は思う。行為するには必ず相手がありそこからの反応があり、こんなところに来るつもりはなかったのに…と、それこそが経験でそれが不足していたのではと言う。「何者かになったあとに何者でもなかった10代に戻るというのは理解しがたい」と。三島の死の直前に古林尚がインタビューしており、「30代、40代になってから無条件に10代の思想を信奉することは不自然で、その無理な姿勢が三島美学が観念の世界にのみ浮遊する。リアリズムと離れて情念にのみ固執せざるを得ない。現実乖離の傾向が(自死の)大きな要因」だとする。三島は夭折者の美に憧れたが、実際には既に45歳にもなっていた。2020年に三島の死後50年を記念し様々な企画が催され「もし三島が自死せず天寿を全うしノーベル文学賞でも獲っても50年後に果たしてこれほどの注目を浴びるだろうか?」と角幡は言う。

記者の「あなたの冒険は社会の役に立っていますか?」の質問からこの本が生まれたみたい。こうして多くの人に本を読まれているのだからもちろん役立っているよ、と私は言いたい。社会のためになることをしようという気持ちは立派だけれど、自分が何をしたいのか、自分の中から湧き上がってくるその気持ちからする何かは結果として人に影響を及ぼしている。その方が純粋でいい。その方がその人を生き生きと生きることに繋がる。生き生きと生きる人が多い社会であればその方が断然いい。私も海外ばかり行ってた時期に「何でそんなに旅行ばかりするのか?」とちょっと非難めいた感じで言われることが何回かあった。その質問は「なぜあなたは生きてるのですか?」と同じ質問だなあと思ったのを思い出す。海外を回っていれば「あなた一人で回ってて凄いわね」「旅は学びで素晴らしいもの」と旅することが絶賛されるのに。角幡は「…自分の思いが誰かに伝わり面白いねと言ってもらえたらこの反応に救われる。…人生が間違っていたなかったこと、正当であると認められてることの証になるからだ」と書いているが、自分の人生は間違っていなかったと感じることが私もつい最近あった。藤井風の「満ちていく」を聴き、その歌詞に涙し自分の人生を振り返る機会になりそれでそう思えた。「grace」を聴いた時も私が旅で学んだことをこの歌詞の中に見出し涙した。言葉の上のことだけでない経験による実感みたいなものが自分の中に確実にあるから。自分が本当にやりたいことをやっている人は皆誰もが素晴らしい。私は三島の「豊饒の海」が好きだし、沢木の「深夜特急」も好きだし、角幡の本のどれもが好き。角幡がチベットの冒険をした時点で縁を感じてたけど、三島や沢木を取り上げるとますます縁を感じる。

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項羽と劉邦12~四面楚歌 [本]

「項羽と劉邦12~四面楚歌」を読みました。

項羽と劉邦 12 (潮漫画文庫)

項羽と劉邦 12 (潮漫画文庫)

  • 作者: 横山 光輝
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 2001/09/20
  • メディア: コミック

横山光輝のマンガ。

漢は彭越に楚の食糧貯蔵庫を焼き払わせたので、劉邦は楚に成皋(せいこう)城を取り囲まれても楚軍は食糧が尽きて3日のうちに退避するだろうと睨んでいたが見事その通りになった。韓信や英布がすぐに駆け付けてこないことに劉邦が不平を漏らすと、張良は恩賞が足りないと指摘される。そこで劉邦は韓信を三斉王に、英布を淮南王に、彭越を魏王豹の後釜として大梁王(梁は魏の異称)として認め独立王国とした。その知らせを張良は3将に知らせに行き、成皋に来てもらうように話して回った。そして成皋に3将軍が兵を連れて集まると実に兵は120万にも膨れ上がっていた。韓信に全軍の指揮を任せ、簫何には兵糧手配を任せた。劉邦は兵士たちに兵糧は劉邦が責任を取り、戦士病死した者は恩賞を取らせ、残された家族には厚い手当をし、後継者がいれば戦没者の官職をそのまま相続させると約束。兵士たちは喜び兵士たちの士気は上がった。

項羽は舒六(じょろく)にいる周殷に高飛車な檄文を送るが国内の盗賊討伐を優先しすぐには駆けつけられないとの返事を周殷はしたため項羽は激怒する。また会稽(浙江省)の太守、呉丹にも檄文を送ると呉丹は10日で駆け付けると言う。呉丹の兵、近隣の若者たちを兵士に募集して全部合わせても楚の兵士の数は漢の兵士の数の半分にも満たなかった。

韓信は項羽と戦い勝つためには九里山の南にある垓下(がいか)である必要があると説く。どのように項羽を垓下までおびき寄せるのがいいのか、そばにいる元趙の知恵袋である李左車に尋ねると、李左車は「埋伏の毒」がいいという。それは偽って楚に投降し項羽に近づき、言葉巧みに出陣をそそのかすことで、李左車自らがその役目を担うと言う。早速李左車は楚の項伯のところへ出向き、項伯は何か釈然としないながらも許可し李左車は項羽のそばで仕えることになった。そして漢軍は出発。彭城近郊に陣を張った。

その頃韓信は沛県の楼に「項王の頭を斬る」といった内容の文を掲げさせた。項羽はそれを知り益々出陣したいところだったが、これは韓信の策で当分籠城するのが一番と部下に言われる。しかし翌日会議を開き、李左車に攻撃するのがよろしいと言われるとすっかりその気になり出陣を決める。出陣時に城の旗が折れ不吉なので出陣を取りやめたほうがいいと言い出すものも出て、虞姫にまで止められ心揺れた項羽だったが、李左車の漢軍の兵糧が底をつき始め韓信が退去の準備をしていると言う偽の情報を伝えることで、項羽は出陣した。その間別の部下たちが漢軍を探りに行き兵糧が十分あることが知れ、李左車を呼び出すも既に彼は逃げた後だった。項羽は騙されたことにショックを受け虞姫に慰めてもらった。そしてまた項羽は戦うことにした。漢の兵糧さえ尽きれば勝利はこちらのものだと考えたからだ。まさか自分の方が兵糧が尽きて敗れるとも知らず。

韓信の作戦はこうだ。漢王自ら先に囮になってもらいその後李左車が出て漢王からバトンタッチ。悪口を言いながら項羽を垓下まで引っ張ると言うものだった。樊噌(はんかい)の目の良さと決断力の速さを買い、九里山から全軍の指示を出す重要な役を韓信は樊噌に与えた。そして漢楚は激突。漢軍の策通りに戦が進み楚軍は50万の兵士が5万の兵士になってしまった。項羽は彭越に戻り兵を整えたかったが彭越には既に漢の旗が翻っていた。項羽は漢の手薄な江東へ向かい、漢の本陣が埋伏していることを知らず漢の真ん中に陣を張る。四方八方から来る漢軍の60余りの将軍と朝から晩まで戦う項羽。項羽の強さは格別で、漢の想像を超えていた。

そこで張良は楚軍の兵士たちの望郷の念を駆り立てるため、漢の兵士たちに楚の歌を練習させ10日で覚えさせた。四方から聞こえてくる楚歌に涙する楚の兵士たち。漢が楚を占領して投降した楚兵が歌っていると思い込み、楚兵の9割は逃げ出した。兵士たちが逃げ項伯も漢の陣へ、鐘離昧も李布も雑兵と共に逃げたので項羽に残った兵は800人ほどになった。孤立し八方塞がりで困った状況に追いやられるこの「四面楚歌」はここから来ている。

項羽は虞姫を連れて行くのを止めようと虞姫に話すと、足手まといになるならここで命を落とすと言い虞姫は自害した(これは有名な京劇の「覇王別姫」に描かれた)その後を追って弟の虞子期も死ぬ。二人を埋葬すると虞姫(虞美人)の墓からひなげしの花が一輪咲き、人々は虞美人草と呼んだ。

項羽は強行突破で300人の兵を失い、楚軍の攻撃を受けその後400人の兵を失い逃避行を続けるが、項羽に恨みを持っていた農夫が間違った道をわざと教え、項羽は漢軍の待ち伏せにあう。それでも楚軍から逃れ荒れた寺で一夜を過ごすと夢を見た。日輪が落下し青い服の少年が東から赤い服の少年が西から来て赤い服の少年が青い服の少年を倒し日輪を掲げて持ち帰る夢だった。これは秦の始皇帝が昼寝をしてみた夢と同じものだった。項羽は72発赤い服の少年が殴られながら最後は日輪を手にしたのを、劉邦の体のほくろが72個あったことを思い出し、これは天啓であがいても逃れらない運命なのだと観念した。残る楚軍はわずか28人。楚の28騎は窮鼠猫を嚙むのごとく漢軍に囲まれても尚激しく戦うが、その後烏江で舟に乗ることを拒否し、武将らしく最後まで戦場で戦うことを決意。村人に愛馬烏䮔(うすい)をあげると烏䮔は項羽のところに戻ろうと舟から水の中に落ち亡くなってしまった。虞姫も亡くなり愛馬烏䮔も亡くなった今、項羽は自害する。24歳で挙兵し8年戦い31歳の生涯だった。この垓下の戦いで項羽が死に劉邦が勝利し楚漢戦争が終わった。漢軍の兵は恩賞欲しさに数十人が争い亡くなった。項羽の5体を斬り残りは胴体だけがその場に残った。劉邦は皇帝に即位し2年後長安に都を開いた。

有名な「四面楚歌」、京劇の「覇王別姫」、虞美人草の由来など知れて良かった。始皇帝の命令で不老不死の薬を求めた徐福の痕跡が日本に残っていることも面白いと思った。項羽は戦に強かったけれど、最後に笑ったのは能力さえあれば幅広くどんな身分も問わない、しかも敵の降下もすぐに認める劉邦だった。劉邦は中年まで遊び人であまりパッとしなかったけれど人から好かれる性格でもあり、多くの優れた軍師たちを抱えることができたのが良かったのだと思う。この「項羽と劉邦」は他にも小説やドラマにもなってるので今度はそちらにトライしたい。

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項羽と劉邦11~韓信斉奪取 [本]

「項羽と劉邦11~韓信斉奪取」を読みました。

項羽と劉邦 11 (潮漫画文庫)

項羽と劉邦 11 (潮漫画文庫)

  • 作者: 横山 光輝
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 2001/09/20
  • メディア: コミック

横山光輝のマンガ。

韓信は高密城を包囲した。楚の龍且(りゅうしょ)は斉の援護にやって来た。両者戦った後、韓信は夜に灯籠を照らしたが、楚軍は皆不思議に思いこれを壊すと急に水が流れ込み兵は水に飲みこまれてしまった。韓信が兵の食糧袋に砂を詰めさせ濰水(いすい)の流れを堰止め、灯籠の明かりが消えたのを合図に堰を切ったからだ。「嚢沙(のうしゃ)の計」~土嚢を使った韓信の水攻めは大成功し、龍且は亡くなり斉王も捕まり打ち首となった。

韓信は斉の国都の臨淄(りんし)へ移動。劉邦は韓信に滎陽(けいよう)に向かう項羽軍を破るように命を出す。すると「仮の斉王になる許しを漢王に言ってみては?」と言っていた蒯通(かいとう)が「この仮の斉王の承諾を得てからその命に従った方がいい」と言い、表文が劉邦の元へと届けられ劉邦は激怒するも周りの軍師たちに宥められ韓信を仮の斉王でなく正式な斉王とした。

楚は韓信の働きを観て楚に帰服させることを考える。楚から武捗(ぶしょう)が派遣される。「項王、漢王、斉王で天下を三分し統治しよう」と提案されるも韓信は断る。それを聞いて蒯通は項羽の申し出を受けるべきだと主張するが、韓信は利に走って義に背くことはできないでいた。陸賈がちょうど来ていてそれを聞き、蒯通に苦言を呈した。蒯通は韓信に野心があれば天下を取れる器だと見抜いていたが、聞き入れてもらえないため暇を貰いどこかへ姿をくらましてしまった。

項羽が出兵。それを聞いて劉邦も出兵。両者は三皇山で対峙した。項羽軍が劉邦軍に優勢だった時に、韓信軍が成皋(せいこう)まで迫り彭越が補給路を遮断したとの知らせが届く。劉邦は韓信と共に兵を引き項羽を討つ準備に入る。項羽軍は少し軍を引くこととなる。項羽は劉邦の父の太公を連れて来て劉邦が撤退なら父の太公や妻の呂后を成皋に送り返すと手紙を書かせ使者に手紙を持って行かせる。しかし劉邦は使者の前でわざと酒に酔い「項羽は名誉のためにこんなことをするはずはない」と言い放ち、項羽の策は失敗に終わる。

劉邦が項羽をいざ攻めると思った時に韓信の姿が一晩中なかったため、劉邦は不審に思う。簫何に韓信のところに向かわせ理由を尋ねさせた。韓信は地形を確かめに行き秘密の計なので誰にも語らなかったと述べた。

韓信は項羽をわざと怒らせ怒りに任せて戦わせようとしたが、軍師たちがこれは韓信の策だと言って止めた。四方八方に伏兵を置いた韓信は項羽に抜け道を絶たせたがかろうじて名馬烏騅(うすい)に乗って項羽は本陣に逃げ込むことができた。韓信が項羽の追撃を報告すると、劉邦は韓信が味方のうちはいいが敵になったら手に負えないと恐れ始めた。

本陣に戻った項羽は漢軍からよく見える崖の上に台と大釜を用意し、またも劉邦の父を利用する作戦に出ようとする。しかし張良が仲のいい友人である楚の項伯に書簡を届けさせ項伯を説得。その使者には楚に家族がいる者が選ばれ楚に行くときに疑われない者を選んだ。その結果釜ゆでは中止となった。しかしいつまた気まぐれで項羽が劉邦の父を殺すかわからないので、侯公を項羽のところに行かせて和睦を申し込む。長く戦い続けることは天下のためにもよろしくないとして。その結果劉邦は家族を取り戻し、項羽は彭城へ戻った。

和睦したかと思っていたのに、張良は劉邦に「あの和睦は家族を助ける策だった」と告げる。そして劉邦が西に帰るのを留まり、項羽が彭城に入る前に追撃して殺すように言う。劉邦は1か月経ってやっと項羽を討つ決心をつける。一方、項羽もしばらくは虞姫と共に遊興の日々を送っていたが、部下に劉邦が約束を破り攻めてくることを考えたほうがいいと言われそれに備えることにした。そんな時、劉邦は陸賈(りくか)を使者として送り宣戦布告書を彭城にいる項羽に渡す。劉邦側は慌ただしく諸侯に急を告げる早馬を出し、防備を固めた。項羽はすぐさま15万野精鋭を引き連れ出兵した。諸侯が来ない漢は籠城を決め、少し楚と戦ったが逃げるが勝ちと固陵城を捨て、成皋(せいこう)城に向かう。

巻末は徐福の記事。徐福が捕鯨の技術を伝え、それだけでなく焼き物、土木、農耕、医薬も伝え、前漢時代の通貨、半両銭の古銭も出てきたことが書いてあった。京都の下丹後半島の新井崎でも熊野と同じ捕鯨技術が伝わり、ここにも徐福伝説があり、徐福を産土神(うぶすながみ)として祀る新井崎神社もあるとのこと。他に、安徽省での虞美人の墓、項羽終焉の地の烏江、垓下(がいか)の戦遺址に項羽が自ら刎ねた場所にある石碑、項羽が馬を繋いだ場所にある石碑、項羽の墓、項羽の像など写真入りの旅行記も。

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項羽と劉邦10~劉邦の反撃 [本]

「項羽と劉邦10~劉邦の反撃」を読みました。

項羽と劉邦 10 (潮漫画文庫)

項羽と劉邦 10 (潮漫画文庫)

  • 作者: 横山 光輝
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 2001/07/23
  • メディア: コミック

横山光輝のマンガ。

漢から戻った虞子期(ぐしき)が范増が漢と通じてる証拠の書簡を持ち帰り、項羽は激怒する。范増が張良の策であると言っても項羽はまだ半信半疑なので范増は引退を宣言。故郷に帰る道すがら倒れ亡くなってしまう。項羽は項伯を軍師とし楚軍は滎陽(けいよう)城を攻めた。漢軍は劉邦に似た紀信を劉邦の影武者にし漢は楚に降伏すると嘘をつき、劉邦を成皋(せいこう)城に逃がして影武者を差し出した。影武者の紀信は亡くなる。

楚は滎陽城を落としてから彭城、成皋城の順で落とす計画でいた。漢が守っている滎陽城には平民に落ちた魏豹が来て楚への降下を勧め、それにより魏豹は首を刎ねられた。彼の首を見た兵士たちはそれによって士気を高め城を守った。楚の決死隊によって滎陽城は落とされた。

項羽を帰らせるために王陵は彭城を攻めた。一方項羽は成皋城にいる劉邦のところまで行ったが何の反応もないことを逆に恐れ撤退した。その間劉邦は成皋城を出た。韓信の軍が近くまで来ていたので劉邦が韓信のところに寄ると警備が薄く韓信は酒を飲み眠っていたため劉邦は激怒。韓信は張耳と共に趙へ行くよう命じられる。

酈食其(れきいき)は「敖倉(ごうそう)の食糧庫さえ死守すれば滎陽城も成皋城も守れる」と言い、楚軍の敖倉の食糧庫を焼き払う作戦に出た。

彭越(ぼうえつ)が梁の17の城を制圧すると項羽が攻撃しに来た。彭越はこっそり城を抜け出し北上して次々他の城も開けさせ各地の食糧を劉邦に送った。その間外黄城は仇明、仇叔親子に任せた。外黄城には項羽がやってきて15歳以上の男子を皆殺しにすると言う。そこで立ち上がったのは13歳の仇叔だった。「殺せば他の民が抵抗し、逃げる民は項羽の非を告げ、協力者は皆無となる」と項羽に謁見し話すと、項羽はそれを聞き入れ生き埋めにするのを止めることにした。その後梁の17の城を全て取り返した。

劉邦は成皋城を取り囲み、ここを守る曹咎(そうきゅう)の籠城を打破するため短気な曹咎の罵詈雑言を兵士たちに言わせ外におびき寄せ曹咎を自害に追い詰めた。英布が後から軍を連れて来たので英布に成皋城を任せ、劉邦は滎陽へと駒を進めた。敵の鐘離昧が近くまで来ていたため、劉邦は4将に挟み撃ちをするよう命令。鐘離昧を逃したが戦利品を持ち帰った。それを知って彭城を先に討とうと思っていた項羽はそれを諦め、滎陽に向かった。

韓信は趙にいた。軍の訓練を行い斉を攻める機会を伺っていた。また酈食其は自ら斉王を説得すると劉邦に進言し斉へ出発する。そのことを韓信に連絡することはなかった。酈食其が見事斉王を説得すると斉王は韓信の攻撃しないとの約束が欲しいと言い酈食其は韓信の一筆を書かせ届けさせた。韓信は斉の攻撃を止め撤退しようと考えていたが、仕える蒯通(かいとう)が「手紙だけでは本当に酈食其が斉王を説得できたのか疑問。また酈食其は舌先だけで斉の70の城を取り、韓信元帥は1年かけて数万の兵を率い趙の50の城を取っただけ。劉邦様の中止命令もないのに軍を引き上げてもいいのだろうか?」と言って来た。韓信はそれを聞き、劉邦の命令通りに事を進めることにすると酈食其はまた書状を送ってきた。しかし韓信はこれが任命に背いているのか従っているのかがわからなくなっていた。秘密裡に酈食其が斉王を説得したことが理解できず、漢がいる間は斉は従っていても退けば背くだろう、その時になって斉を滅ぼそうとしても遅い、と韓信は嘆いた。酈食其を見殺しにせざるを得ず、酈食其は斉で油の釜茹で殺された。斉王は高密城に逃げ、楚軍の援軍を待った。韓信は臨淄城(しんしじょう)を落とし、高密へと向かった。

巻末は項羽と劉邦が睨み合った広武山の楚漢二王城を行く旅。また面白かったのが、「三国志演義」に約200年先立つ講釈師のマニュアル本「三国志平話」の中に、冥界の裁判のシーンがあり、次の人が三国志のそれぞれの人物に生まれ変わるように言われたという。韓信は曹操。彭越は劉備。英布は孫権。劉邦は献帝。呂后は伏皇后。蒯通は諸葛孔明。司馬仲相(光武帝時代の書生で裁判官を託された)は司馬懿。こちらもちょっと読みたい気分。

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項羽と劉邦9~孝子王陵   [本]

「項羽と劉邦9~孝子王陵」を読みました。

項羽と劉邦 9 (潮漫画文庫)

項羽と劉邦 9 (潮漫画文庫)

  • 作者: 横山 光輝
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 2001/07/23
  • メディア: コミック

横山光輝のマンガ。

楚では漢にいる魏豹(ぎぼう)に謀反を起こさせ、韓信に平陽出兵させ手薄の滎陽(けいよう)を攻める作戦を立てる。まず占い師の許負を派遣し言葉巧みに魏豹をその気にさせた謀反を起こさせ、楚のシナリオ通りに韓信は平陽に出兵し、樹木をくりぬいた甕で農家にはどこにでもあった木罌(ぼくおう)を使い筏を作り河を渡り、魏豹を挟み撃ちにし魏豹を捕えた。魏豹はのちに平民に落とされる。

その頃滎陽を任されている王陵のところには楚軍が攻撃してきた。王陵は楚軍に夜襲を掛け、城の周りに筵を置き敵兵が来るのを見計らい火をつけ近づけないようにした。楚軍は気のゆるみから3万人もの兵を失ってしまう。楚では王陵の母を人質にとっていたので滎陽まで連れて来て、王陵に楚に母に会いに来るよう言ってくる。漢の叔孫通(しゅそんとう)が王陵の母が本当にいるのか確かめに楚へ向かい会うと、王陵の母は自分の息子が逆賊の項羽に仕えるなど滅相もないとその場で自害してしまう。王陵はその知らせを聞き泣き崩れた。

漢では王陵と叔孫通そっくりな死刑囚を選び刑を執行し、その首をさらした。それを知って楚は叔孫通の言っていた有り余る漢軍の兵糧のことを思い出し撤退することに決める。しかし范増はこれらが張良の策であることを見破っていた。

漢の次なる計画は代州、趙、燕、斉を破り、楚を孤立させることだった。陳余と張耳は刎頚(ふんけい)の友(頸(首)を刎ねられても悔いはないほど深い友情)だったが仲違いし、今や趙王となった陳余は漢に亡命している張耳の首を要求していた。漢は代州を落とした後、趙に出兵。しかし趙に向かう時楚軍の鐘離昧が漢の兵糧を狙っていると知り漢軍は半分の兵で趙へ向かう。趙に間者を送り情報収集させると陳余は奇襲を嫌い正々堂々と戦うことを望んでることを漢側が知り、韓信は河を背に陣を築く「背水の陣」を敷いた。これを見た楚軍の兵士たちは兵法の初歩すら知らないのではないかとバカにしていた。張耳は韓信に趙軍に仕掛け負けてすぐ逃げるよう指示されていたが、そう言われずとも逃げるに決まっていると苦笑した。しかし「部隊を絶体絶命の境地に立たせれば誰もが必死に戦い勝利する」の韓信の言葉通り、火事場の馬鹿力のごとく必死に防衛し楚軍を城に戻した。楚軍の城は既に漢に占拠され楚軍は逃げまどった。張耳と陳余が戦い、陳余は刺され亡くなった。楚の20万の大軍は漢のわずか3万の軍に大敗した。

次に韓信は李左車を探し出し、いかに燕を攻めるかを問うた。すると李左車は「趙の人々の心をつかむこと。孤児、未亡人、子を亡くした親を労われば、趙の人々はお礼の品を捧げにくるのでそのお礼の品を兵士たちに与えて慰安すること。燕にこちらの有利さを説き服させる。燕が服せば斉も服す」と言った。韓信はこの言葉通り実行すると燕は降伏した。

項羽は10万の兵を率い劉邦のいる今は手薄の滎陽へ。劉邦側は「反間の計」を用いる。項羽の頼みの人間、范増や鐘離昧などに猜疑心をかき立たせ反間、離間をさせる作戦に出る。それは金をふんだんに使い楚軍に潜り込んで范増と鐘離昧が漢と通じていると噂を流すことであった。その一方で漢から楚に和睦を申し立てる使者を送り込み、逆に楚から漢にも使者を送り込ませ、その使者に范増の漢と通じている証拠の書簡をわざと目につくところに置いて読ませ持ち帰らせることだった。これで項羽が范増たちを疑い始めることでこの計は完成した。

巻末は農民の陳勝、呉広が蜂起した大沢郷(河南市)と范増の故郷の巣湖(安徽省)を訪ねる旅。大沢郷には陳勝と呉広の大きな像があり、そこには「農民革命的序幕」の文字も入っていて、范増の故郷には范増の像、亜父像、亜父公園があるとのこと。有名な韓信の「背水の陣」と陳余と張耳の「刎頸の友」も出て来てきました。勉強になります。

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