ペルー・クスコ [旅の思い出・中南米編]
気分を一新して新しいスキンにしてみました。あれやこれや選ぶのに30分以上もかかってしまいました。もっとスキンに選択肢があるといいなあと思います。so-netさん、よろしくお願いします。
ペルーのリマからクスコに飛行機でひとっ飛び。クスコはケチュア語でへそを意味します。標高3600Mで、こころなしか空気が薄く感じましたが、高山病らしきものとはお陰様で無縁でした。私は標高高い街が大好きです。
空港からはコレクティーボ(乗り合いバス)でクスコの中心ソカロ(広場)に出ます。中南米はどの町もソカロが中心なので、とにかく新しい街に着いたらソカロ目指せばいいのです。写ってるのはコレクティーボのバス↓。下手なタクシーよりよほど安全です。私は旅行では基本的に公の交通しか使いません。これも危険回避の大切なことです。
クスコのどこかの教会↓。もっとゴージャスなこの手の祭壇はそれまでもたくさん観てきましたが、確かこれはとても古くて何か由緒正しきものだったような・・・。知ってる方がいたら是非教えてください(またかよ、って感じですが)。
ソカロから伸びた道はこんな感じの路地↓です。雰囲気あります。
ソカロに面する教会↓。私はこのソカロからちょっと入った宿に泊まりました。観光にすごく便利で良かったです。日本人がやってる「ペンション花田」がクスコでは有名で、出会った日本人旅行者が「クスコに行ったらペンション花田に泊まるといいよ」という人もいましたが、実際ペンション花田はソカロからかなり坂を上がったところにあり(息が切れます)、しかも何人かの悪いペルー人が、ペンション花田に泊まる旅行者を待ち伏せし、羽交い絞めにし、金品を奪っていくという話も聞いていたので、私はそこには泊まりませんでした。
白昼でも旅行者が一人になると、何人かの悪いペルー人の標的になることもあったようで、私が泊まってた宿のアメリカ人の旅行者も「ちょっと離れたとこにある教会に行ったカナダ人が3人のペルー人にいきなり襲われてお金を取られた。かなりがたいもいい男なのに3人に襲われてはいちころだよ」と言ってました。私は幸いにも何もなかったのですが、クスコも当時危ない場所でした。後からボリビアのラパスで日本人10人と会って話したときに、そこにいた私ともう一人を除く8人がクスコで何らトラブルに遭い、ほとんどがメルカード(市場)でお金を取られたりパスポートを取られたりしてました。そのうちの一人が「パスポルテ(パスポート)と言ったらパスポートだけは戻してくれたよ」と笑ってましたけど大変なことです。またクスコから列車で移動した際も居眠りしてて金品を盗まれた人がいました。私が何もなかったのは「危ない中をひょろひょろと、たまたまうまく通り抜けてきただけだよ」とその時皆に言われたのですが、クスコからの列車も危ないと知ってて使わなかったし、歩くときも周りをかなり気にしながら歩いていたので、そういうことも関係するんじゃないかなあと思いました。まあ確かにラッキーだったことはラッキーだったのかもしれませんが・・・・。
壁画↓。クスコにもたくさん素晴らしい壁画がありました。壁画があちこちにあるのは、メキシコシティみたいでした。
時々こういう子供たちが歩いてます↓。
ソカロから離れてどんどん上へ上へと道を行ってみました↓。
こういう道↓がたくさんあります。積み上げた石が美しく「インカの石積みはカミソリの刃一枚も通さない」と言われてます。
タイルの貼ってある家↓。スペインのアンダルシアのタイルを思い出しました。
何かのオーナメンツ↓。
小石の道↓。かなり上まで昇って来ました。昇ってきたのはサクサイワマン遺跡に行くためです。
一休み、一休み↓。
次回はサクサイワマン遺跡などの遺跡巡りです。
ペルー・リマ [旅の思い出・中南米編]
ペルーにはエクアドルからバスにて入国。1993年12月のことです。
エクアドルの最後の記事(こちら)に書いたように、日系人がペルーにたくさんいるので、私自身はペルー人に間違えられて現地の悪い警察からうまく難を逃れることができましたが、ペルー入国はそれでもかなり緊張して入国しました。というのも、今はどうか知りませんが、「腕時計、ネックレスなどはつけて旅行しないこと。腕時計欲しさに腕からナイフでざっくり腕を落とされるし、ネックレス欲しさにネックレスも切られる。特にリマの旧市街が危ない」とか「バックパックは上から麻袋で覆うこと。そうでないとバックパックを背負っているとき、後ろから切られて中のものが盗まれる」という他の国では書かれてない注意書きが、旅行書にあったからです。
その上、私の旅仲間の多くは出発前に「南米なんて危ない。ペルーなんて危ないよ。行かないほうがいいよ」とか「西洋人の旅行者だってリマだけははずして旅行するらしいよ。危ないから」と言い、せっかく行こうと計画していても周りからかなりペルー行きを反対されたので、これは行かないほうがいいのかなあと日本を発つ前はかなり弱気になり、私自身ペルーだけは外してしまおうかと思ったほどです。
しかし、ペルーに詳しい旅行者にペルー入国前のエクアドルで会い、いろいろアドバイスをもらって、「普通に気をつけていれば大丈夫。今まで何もトラブルに巻き込まれていないでしょうトラブルに遭う人はどこ行ったってトラブルに巻き込まれ、巻き込まれない人は巻き込まれないから。あなたは今まで大丈夫だから大丈夫だよ。それに一番いい時期だよ。フジモリ大統領になってペルーも治安が良くなったよ」という力強い言葉をもらい、意を決してドキドキしながらペルーに入国しました。
ペルーのピウラまではエクアドルからのバスで移動し、ペルーに入ってピウラからリマに飛びました。リマの旧市街は危なくて、ペルーを旅行する人の多くがリマだけは飛ばしてしまう人が多かったのですが、宿を安全な高級住宅街にある新市街、ミラフローレスのユースにし、一日だけ意を決して腕時計もカメラもパスポートもTCも大金も全てユースに預け、あとは小銭だけもってリマの旧市街に観光に出かけましたが、確かに旧市街を歩いていると雰囲気の悪い人たちがかなりたむろっていて、コロンビアのボゴタの旧市街に負けないくらい怖くて雰囲気悪いところでした。こういう場所では目的意識を持って、小走りくらいで街中を歩かないとやられます。
「世界で一番どこが雰囲気悪くて歩けない場所でしたか」と聞かれたら、私は迷わず「コロンビアのボゴタの旧市街とペルーのリマの旧市街」と答えます。本当に雰囲気悪すぎでした。
これはペルーのユースにあったタペストリー↓。タペストリー好きなのですぐ写真を撮ってしまいます。
写真↓は全て新市街のミラ・フローレスでのもの。旧市街のものは一枚もなし。クリスマス時期なのでそれらしき飾りも多かったです。
泊まってたユースのクリスマスオーナメンツ↓。
パルケ(公園)の飾り↓。
パルケ(公園)でリャマ発見↓。さすがペルー。
街中にたくさんあったクリスマスツリー↓。
フローレス(花)も華やか↓。
さすがに高級住宅街なので、こんな家もありました↓。
歩いてたらフォルクローレ↓がやってました。
ペルー・リマに行ったら忘れてはならないのはMuseo Amano(天野博物館)。ちょうど時期的にいつも説明している学芸員の方が休みに入ってしまい、天野博物館を設立した故天野芳太郎氏の奥様が自ら博物館内を案内してくださるという幸運にも恵まれました。しかもこの博物館が他の博物館と違うのは実際に出土した土器を直に手で触らせてくれるところ。たくさんのタペストリーも引き出しの中にキチンと整理されて素晴らしかったです。要予約なのですが、ここは絶対外せないスポットです。
エクアドルのクエンカとクエンカ、マチャラ、ペルーのピウラ間の遺跡 [旅の思い出・中南米編]
エクアドルの旅行の続きです。
スペインにもクエンカっていう地名がありますが、エクアドルにもクエンカという同じ地名があります(同じ地名、特にスペイン本国と中南米に共通の地名を発見するのはイギリスとアメリカに共通の地名を発見するのと同じように、珍しくもないのですが・・・)
こちらは宿の部屋から眺めた風景↓。ちょうどソカロ(広場)に面した宿だったのでちょっとにぎやかでしたが、楽しい眺めでした。いつまで眺めていても飽きません。この写真はお気に入りの一枚。
クリスマスも近いので露天にはこんなクリスマスオーナメンツ↓が売られてました。
ホテルで、キト祭(関連記事はこちら)で観た衣装と同じ衣装を着た人たちの絵を発見。何だか嬉しくなりました。
その後、クエンカからバスで南下し、ペルーの国境まで目指しました。この写真↓はエクアドルのクエンカからマチャラ、もしくはペルーのピウラまでの間にある遺跡だと思うのですが・・不明です。思い出せません。(日記もどこかにいってしまったし)知ってる人は是非教えてほしいです。
結構立派な遺跡↓なんですよね。
ペルーのピウラまで陸路バスで移動したのは、エクアドルのどこかの都市からペルーのリマに飛ぶよりもペルーに入ってからリマに飛んだほうが、国際線でなく国内線を使うということで安あがり、と他の旅行者に聞いて、バスで国境越えをしたのです。(何せバックパッカーでなるべくお金のかからない方法で旅行してた時でしたので・・・)
そしてペルー側に入るといきなりポリスが入ってきて、地元の女、子供をバスに残して、外人旅行者と男はみんな外に出なければならず、明らかに白人カップルの旅行者が真っ先に降ろされ、パスポートや荷物をチェックされていました。それを見て私も降りようとすると、地元の女性たちが、「あなたは降りなくていいよ」と言って私を制止するので、「まあいいか」と思ってそのままバスにいたらポリスは私に目をくれることもなく、行ってしまいました。そのときは気づかなかったのですが、ペルーには日系人がたくさんいるので、私もその日系ペルー人に間違われたらしく得をしました。というのもこの時、白人旅行者はポリスに”dineroディネロ”(お金)と言われてお金を要求され、仕方なく何ドルかを払わざるを得なかったのです。私が行った93年~94年のペルーは「フジモリ大統領になり、警察の悪い腐った人たちが一掃されて、あなたは旅行しやすい時期に来たよ。ラッキーだよ」とペルーに何度も足を運んでる旅行者にクエンカで会い聞いていたのですが、それでもまだ腐ってる警察はいたのです。それにしても初っ端から難を逃れ、私はラッキーでした。良かったです。
次回からそのペルーの旅が始まります・・・。
エクアドルのバーニョスの祭り [旅の思い出・中南米編]
エクアドルのバーニョス(関連記事はこちら)の続きです。
祭りは夕方遅くなるまで続いてました。フロートがとにかく途切れないのです。
「もう君、疲れたかな」眠そうな↓ニーニョ(子供)です。
↓衣装も南米らしい衣装が続きます。
サンポーニャと太鼓↓。つい先日も錦糸町の駅前でサンポーニャのストリートパフォマンスを見ました。錦糸町駅前ではよくサンポーニャを使って、フォルクローレの演奏してます。興味のある方は錦糸町駅前でも時々パフォーマンス見られます。私はこのサンポーニャの音色好きです。
フォルクローレ演奏隊↓。ケーナやチャランゴも使ってます。
ミス・バーニョスか↓
自分のホテルの部屋に戻って眺めてみました↓。たくさんの人が見学してるのがわかります。
エクアドルのバーニョス [旅の思い出・中南米編]
1993年12月のエクアドルの旅の続きです。
エクアドルのバーニョスには温泉施設があります。バーニョスという地名にはお風呂と言う意味があり、この地には3つくらいの温泉施設がありました。皆、水着をつけてくつろぎます。大きなプールにもなっているので泳いでもいました。私も一緒に入ってきましたが、水着を着てるので日本の温泉とはちょっと違った感じでした。でも街の雰囲気はもろ温泉街の雰囲気で、エクアドル人の観光地にもなっているのでお土産屋さんも充実してました。
南米では他にペルーのアグアスカリエンテ(こちらも温泉の意味)の温泉も有名ですが、いずれも水着を着て入るので、体を隅々まで洗えないのが残念といえば残念。
こちらも別の温泉施設↓。
そして、うまい具合にまたもお祭りにも出会いました。こちら↓はお祭りのために着飾った子供たち。
↓これから始まるので待機してます。
さあ、始まりました。↓お祭りのフロートが次々に続きます。晴れやかな衣装に身を包んで、皆ニコニコです。
↓うまく踊れるかな
このフロートの上でも↓子供たちはほとんどマイペースで遊んでました。
祭りの模様はまだまだ続きます・・・・。