項羽と劉邦6~水火の計 [本]
「項羽と劉邦6~水火の計」を読みました。
横山光輝のマンガ。
大元帥となった韓信が樊噲(はんかい)に命を出す。1万人の人夫を使い1か月で300里ある桟橋を修復すること。しかしあまりにも短期間での過酷な工事なので脱走兵が続出し、漢から楚へ下るものが出た。しかしそれは織り込み済みで韓信の策だった。裏では陳倉道がありこの道を通れば5日で相手側の領地、散閑に出ることがわかっていた。韓信は出陣。その途中で義兄弟の契りを結んだ辛奇にも遭い、辛奇も軍に加わる。散閑の城内ではわざと投降した者たちが城門を開かせた。
ここから章邯(しょうかん)の守る廃丘城を攻めた。散閑城主の章平が耳を斬られて駆け込んできて事情を把握する章邯。すっかり油断していたので慌てた。城に引きこもる章邯を外におびき寄せるため、罵詈雑言並べ城の前で宴会を催す漢軍。章邯は夜討ちをかけるも漢軍は待ち構え火攻めを行う。慌てて章邯はまた城に逃げ帰る。またも章邯は引きこもってしまったため、今度は上流で3日間堰を止めその後一気に堰を切って川を反乱させ城を水浸しにした。泣く泣く章邯は裏の桃林に逃げ、韓信は城の中に入った。
次に董翳(とうえい)が守る高奴城を攻めようとすると、董翳は既に城から離れた場所で待ち構えていた。戦った後董翳は降伏。魏軍は仲間の司馬欣に降伏するよう手紙を書かせる。司馬欣は素直に降伏しなかったが最終的には降伏し、その後韓信は桃林に逃げた章邯を追ったが章邯は自害してしまった。
その後漢軍は咸陽に出発。漢に下ったばかりの呂馬通を使い彼が持っている項羽からの符木で楚の城を開城させる。劉邦が咸陽に入ると多くの民に歓迎された。彼は民に危害を加えていなかったので絶大な人気があった。
巻末には韓信が修復を行った桟道への観光のことが書かれていました。そこには「三国志」の曹操の書いた文字「袞雪(こんせつ)」が刻まれており、孔明が本を読んだ読書台や孔明が木牛流馬を作った場所もあり、孔明の遺体が移された漢中武侯祠もあるとのこと。「項羽と劉邦」と「三国志」の舞台が重なっている場所は結構あり、観て回るのも面白そうです。 また「張王李趙遍地劉」という言葉が中国にあり、これは張、王、李、趙、劉という5つの姓は地に遍く、どこにでもある、という意味らしくこの5姓は今でもとっても多い姓だそう。日本の佐藤や鈴木、高橋、田中、渡辺みたいなものなのでしょう。
>nice!をいただき、皆様ありがとうございます。
by naonao (2024-03-14 14:59)
niceとコメント有難うございます。
by たいちさん (2024-03-14 22:23)
>たいちさん、こんばんは。
nice!はしてますが、コメントは年始だけのご挨拶だけでその他のコメントはしてません。何か勘違いしていらっしゃると思いますが…。
by naonao (2024-03-15 23:06)