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項羽と劉邦12~四面楚歌 [本]

「項羽と劉邦12~四面楚歌」を読みました。

項羽と劉邦 12 (潮漫画文庫)

項羽と劉邦 12 (潮漫画文庫)

  • 作者: 横山 光輝
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 2001/09/20
  • メディア: コミック

横山光輝のマンガ。

漢は彭越に楚の食糧貯蔵庫を焼き払わせたので、劉邦は楚に成皋(せいこう)城を取り囲まれても楚軍は食糧が尽きて3日のうちに退避するだろうと睨んでいたが見事その通りになった。韓信や英布がすぐに駆け付けてこないことに劉邦が不平を漏らすと、張良は恩賞が足りないと指摘される。そこで劉邦は韓信を三斉王に、英布を淮南王に、彭越を魏王豹の後釜として大梁王(梁は魏の異称)として認め独立王国とした。その知らせを張良は3将に知らせに行き、成皋に来てもらうように話して回った。そして成皋に3将軍が兵を連れて集まると実に兵は120万にも膨れ上がっていた。韓信に全軍の指揮を任せ、簫何には兵糧手配を任せた。劉邦は兵士たちに兵糧は劉邦が責任を取り、戦士病死した者は恩賞を取らせ、残された家族には厚い手当をし、後継者がいれば戦没者の官職をそのまま相続させると約束。兵士たちは喜び兵士たちの士気は上がった。

項羽は舒六(じょろく)にいる周殷に高飛車な檄文を送るが国内の盗賊討伐を優先しすぐには駆けつけられないとの返事を周殷はしたため項羽は激怒する。また会稽(浙江省)の太守、呉丹にも檄文を送ると呉丹は10日で駆け付けると言う。呉丹の兵、近隣の若者たちを兵士に募集して全部合わせても楚の兵士の数は漢の兵士の数の半分にも満たなかった。

韓信は項羽と戦い勝つためには九里山の南にある垓下(がいか)である必要があると説く。どのように項羽を垓下までおびき寄せるのがいいのか、そばにいる元趙の知恵袋である李左車に尋ねると、李左車は「埋伏の毒」がいいという。それは偽って楚に投降し項羽に近づき、言葉巧みに出陣をそそのかすことで、李左車自らがその役目を担うと言う。早速李左車は楚の項伯のところへ出向き、項伯は何か釈然としないながらも許可し李左車は項羽のそばで仕えることになった。そして漢軍は出発。彭城近郊に陣を張った。

その頃韓信は沛県の楼に「項王の頭を斬る」といった内容の文を掲げさせた。項羽はそれを知り益々出陣したいところだったが、これは韓信の策で当分籠城するのが一番と部下に言われる。しかし翌日会議を開き、李左車に攻撃するのがよろしいと言われるとすっかりその気になり出陣を決める。出陣時に城の旗が折れ不吉なので出陣を取りやめたほうがいいと言い出すものも出て、虞姫にまで止められ心揺れた項羽だったが、李左車の漢軍の兵糧が底をつき始め韓信が退去の準備をしていると言う偽の情報を伝えることで、項羽は出陣した。その間別の部下たちが漢軍を探りに行き兵糧が十分あることが知れ、李左車を呼び出すも既に彼は逃げた後だった。項羽は騙されたことにショックを受け虞姫に慰めてもらった。そしてまた項羽は戦うことにした。漢の兵糧さえ尽きれば勝利はこちらのものだと考えたからだ。まさか自分の方が兵糧が尽きて敗れるとも知らず。

韓信の作戦はこうだ。漢王自ら先に囮になってもらいその後李左車が出て漢王からバトンタッチ。悪口を言いながら項羽を垓下まで引っ張ると言うものだった。樊噌(はんかい)の目の良さと決断力の速さを買い、九里山から全軍の指示を出す重要な役を韓信は樊噌に与えた。そして漢楚は激突。漢軍の策通りに戦が進み楚軍は50万の兵士が5万の兵士になってしまった。項羽は彭越に戻り兵を整えたかったが彭越には既に漢の旗が翻っていた。項羽は漢の手薄な江東へ向かい、漢の本陣が埋伏していることを知らず漢の真ん中に陣を張る。四方八方から来る漢軍の60余りの将軍と朝から晩まで戦う項羽。項羽の強さは格別で、漢の想像を超えていた。

そこで張良は楚軍の兵士たちの望郷の念を駆り立てるため、漢の兵士たちに楚の歌を練習させ10日で覚えさせた。四方から聞こえてくる楚歌に涙する楚の兵士たち。漢が楚を占領して投降した楚兵が歌っていると思い込み、楚兵の9割は逃げ出した。兵士たちが逃げ項伯も漢の陣へ、鐘離昧も李布も雑兵と共に逃げたので項羽に残った兵は800人ほどになった。孤立し八方塞がりで困った状況に追いやられるこの「四面楚歌」はここから来ている。

項羽は虞姫を連れて行くのを止めようと虞姫に話すと、足手まといになるならここで命を落とすと言い虞姫は自害した(これは有名な京劇の「覇王別姫」に描かれた)その後を追って弟の虞子期も死ぬ。二人を埋葬すると虞姫(虞美人)の墓からひなげしの花が一輪咲き、人々は虞美人草と呼んだ。

項羽は強行突破で300人の兵を失い、楚軍の攻撃を受けその後400人の兵を失い逃避行を続けるが、項羽に恨みを持っていた農夫が間違った道をわざと教え、項羽は漢軍の待ち伏せにあう。それでも楚軍から逃れ荒れた寺で一夜を過ごすと夢を見た。日輪が落下し青い服の少年が東から赤い服の少年が西から来て赤い服の少年が青い服の少年を倒し日輪を掲げて持ち帰る夢だった。これは秦の始皇帝が昼寝をしてみた夢と同じものだった。項羽は72発赤い服の少年が殴られながら最後は日輪を手にしたのを、劉邦の体のほくろが72個あったことを思い出し、これは天啓であがいても逃れらない運命なのだと観念した。残る楚軍はわずか28人。楚の28騎は窮鼠猫を嚙むのごとく漢軍に囲まれても尚激しく戦うが、その後烏江で舟に乗ることを拒否し、武将らしく最後まで戦場で戦うことを決意。村人に愛馬烏䮔(うすい)をあげると烏䮔は項羽のところに戻ろうと舟から水の中に落ち亡くなってしまった。虞姫も亡くなり愛馬烏䮔も亡くなった今、項羽は自害する。24歳で挙兵し8年戦い31歳の生涯だった。この垓下の戦いで項羽が死に劉邦が勝利し楚漢戦争が終わった。漢軍の兵は恩賞欲しさに数十人が争い亡くなった。項羽の5体を斬り残りは胴体だけがその場に残った。劉邦は皇帝に即位し2年後長安に都を開いた。

有名な「四面楚歌」、京劇の「覇王別姫」、虞美人草の由来など知れて良かった。始皇帝の命令で不老不死の薬を求めた徐福の痕跡が日本に残っていることも面白いと思った。項羽は戦に強かったけれど、最後に笑ったのは能力さえあれば幅広くどんな身分も問わない、しかも敵の降下もすぐに認める劉邦だった。劉邦は中年まで遊び人であまりパッとしなかったけれど人から好かれる性格でもあり、多くの優れた軍師たちを抱えることができたのが良かったのだと思う。この「項羽と劉邦」は他にも小説やドラマにもなってるので今度はそちらにトライしたい。

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