族長の秋 エレンディアなど短編 [本]
ガルシア・マルケスの「族長の秋」を読みました。
この本には「無垢なエレンディアと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語り」を含む6作品の短編も含まれています。「族長の秋」は「百年の孤独」の後に出版されたようですが、執筆は既にこちらが先にされていて短編はこの2作品の間に書かれています。「族長の秋」は「牛と一緒に宮殿に取り残されたようなひどく年取った独裁者のイメージ」で書かれたと言います。ストーリーは父が誰かもわからず動物的な身体特徴を持って、自分の懐を潤すために子供をさらい、そして自分の欲望を満たすため少女たちを送り込ませるようなことをしてる独裁者の話。ちょっと気分悪い内容でもありました。そしてこの「族長の秋」は一体誰が語り、誰のことを語っているのか時々わからなくなることがありちょっと難解でした。宝石箱とかおもちゃ箱をひっくり返したかのような、またはサーカスや見世物小屋に行った時のようなキラキラした言葉の世界が健在でも(これはガルシア・マルケスの使う言葉に対する私独自のイメージです)改行もあまりせず、セリフの鍵カッコもない状態で本当に読むのに一苦労。その言葉の煌めきだけに惹きつけられて読み終えた感じでした。「百年の孤独」は人名が混乱することはあっても難しくはなかった。本にある相関図を時々参考にすれば簡単でした。また「コレラの時代の愛」も読みやすかったのですが。また短編のいくつかのうち少し長めの「無垢なエレンディアと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語り」のストーリーも祖母が孫娘の売春を強いているので決して気分良くないのですが、たくさんの言葉の煌めきで何だかその酷いことすらオブラートにくるまれどこかの夢の国の話であまり現実味がなく読めてしまいました。
そしてこれらの短編と重複してるとは知らずに「エレンディア」を開いたらほとんど同じ内容の短編だったので、こちら↓は訳者であとがきを記してる木村栄一氏の解説だけを読みました。
訳者のあとがきを読んでなるほどと思ったのですが、「時間を超えて空間を超えて言葉を超えて、同じような民話がある」ということが書かれてあり(昔読んだ「中沢新一氏の本でもそんなことが書かれてあったのを思い出しました)「(昔は口頭で伝えられてきたことはすぐ忘れ去られてしまうため)事件、事故を記憶に留めるために、実在の人物を神話型に近づける」と言っています。例えば、婚約してる男性が事故で亡くなり残された女性が嘆き悲しむ、ということが起きた時、その婚約者の男性に恋していた妖精が嫉妬のあまり彼を事故に巻き込み彼が亡くなり、残された女性が嘆き悲しむといった風に、妖精を登場させ神話のようにすれば、人々の心の中に残るだろうと言ってるのですが、確かにそれはあるうるなあと思いました。ガルシア・マルケスは祖母から、口から口へと伝わった民話や伝説、言い伝えなどをたくさん聞いて影響を受けているようで、だからこそ彼の書く物語はおとぎ話や神話、童話のように感じるのだと納得しました。幻想的で突拍子もない物語、おとぎ話でも神話でも童話でも私は好きで、だから今もなお中国ドラマのファンタジーものに惹きつけられているのだなあとも思いました。
中国ドラマのファンタジーは神様や仙人を扱ってる物語が多く最初観たときは結構衝撃を受け、今も夢中になっています。最近見たばかりの「長月烬明」も神様の世界と仙人の世界、人間の世界を描き登場人物がそれぞれの世界にまた登場し、500年とか1万年とかいう長いスパンで物語が展開しているのがとっても壮大で楽しかったです。好きな女性を捜して黄泉の国を彷徨ったり、自分が魔神になりたくないのに魔神になって世界を救ったり、女性側も彼が魔神になってほしくなくて自分の鍛錬したすべてを捧げて彼を救ったり、ある種のひな型みたいなものが使われているように感じました。タイムリーにガルシア・マルケスの本も読めて、中国ドラマのファンタジーとも色々共通点を見出す発見のようなものができて良かったです。
>nice!をいただき、皆様ありがとうございます。
by naonao (2023-05-25 09:48)