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項羽と劉邦9~孝子王陵   [本]

「項羽と劉邦9~孝子王陵」を読みました。

項羽と劉邦 9 (潮漫画文庫)

項羽と劉邦 9 (潮漫画文庫)

  • 作者: 横山 光輝
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 2001/07/23
  • メディア: コミック

横山光輝のマンガ。

楚では漢にいる魏豹(ぎぼう)に謀反を起こさせ、韓信に平陽出兵させ手薄の滎陽(けいよう)を攻める作戦を立てる。まず占い師の許負を派遣し言葉巧みに魏豹をその気にさせた謀反を起こさせ、楚のシナリオ通りに韓信は平陽に出兵し、樹木をくりぬいた甕で農家にはどこにでもあった木罌(ぼくおう)を使い筏を作り河を渡り、魏豹を挟み撃ちにし魏豹を捕えた。魏豹はのちに平民に落とされる。

その頃滎陽を任されている王陵のところには楚軍が攻撃してきた。王陵は楚軍に夜襲を掛け、城の周りに筵を置き敵兵が来るのを見計らい火をつけ近づけないようにした。楚軍は気のゆるみから3万人もの兵を失ってしまう。楚では王陵の母を人質にとっていたので滎陽まで連れて来て、王陵に楚に母に会いに来るよう言ってくる。漢の叔孫通(しゅそんとう)が王陵の母が本当にいるのか確かめに楚へ向かい会うと、王陵の母は自分の息子が逆賊の項羽に仕えるなど滅相もないとその場で自害してしまう。王陵はその知らせを聞き泣き崩れた。

漢では王陵と叔孫通そっくりな死刑囚を選び刑を執行し、その首をさらした。それを知って楚は叔孫通の言っていた有り余る漢軍の兵糧のことを思い出し撤退することに決める。しかし范増はこれらが張良の策であることを見破っていた。

漢の次なる計画は代州、趙、燕、斉を破り、楚を孤立させることだった。陳余と張耳は刎頚(ふんけい)の友(頸(首)を刎ねられても悔いはないほど深い友情)だったが仲違いし、今や趙王となった陳余は漢に亡命している張耳の首を要求していた。漢は代州を落とした後、趙に出兵。しかし趙に向かう時楚軍の鐘離昧が漢の兵糧を狙っていると知り漢軍は半分の兵で趙へ向かう。趙に間者を送り情報収集させると陳余は奇襲を嫌い正々堂々と戦うことを望んでることを漢側が知り、韓信は河を背に陣を築く「背水の陣」を敷いた。これを見た楚軍の兵士たちは兵法の初歩すら知らないのではないかとバカにしていた。張耳は韓信に趙軍に仕掛け負けてすぐ逃げるよう指示されていたが、そう言われずとも逃げるに決まっていると苦笑した。しかし「部隊を絶体絶命の境地に立たせれば誰もが必死に戦い勝利する」の韓信の言葉通り、火事場の馬鹿力のごとく必死に防衛し楚軍を城に戻した。楚軍の城は既に漢に占拠され楚軍は逃げまどった。張耳と陳余が戦い、陳余は刺され亡くなった。楚の20万の大軍は漢のわずか3万の軍に大敗した。

次に韓信は李左車を探し出し、いかに燕を攻めるかを問うた。すると李左車は「趙の人々の心をつかむこと。孤児、未亡人、子を亡くした親を労われば、趙の人々はお礼の品を捧げにくるのでそのお礼の品を兵士たちに与えて慰安すること。燕にこちらの有利さを説き服させる。燕が服せば斉も服す」と言った。韓信はこの言葉通り実行すると燕は降伏した。

項羽は10万の兵を率い劉邦のいる今は手薄の滎陽へ。劉邦側は「反間の計」を用いる。項羽の頼みの人間、范増や鐘離昧などに猜疑心をかき立たせ反間、離間をさせる作戦に出る。それは金をふんだんに使い楚軍に潜り込んで范増と鐘離昧が漢と通じていると噂を流すことであった。その一方で漢から楚に和睦を申し立てる使者を送り込み、逆に楚から漢にも使者を送り込ませ、その使者に范増の漢と通じている証拠の書簡をわざと目につくところに置いて読ませ持ち帰らせることだった。これで項羽が范増たちを疑い始めることでこの計は完成した。

巻末は農民の陳勝、呉広が蜂起した大沢郷(河南市)と范増の故郷の巣湖(安徽省)を訪ねる旅。大沢郷には陳勝と呉広の大きな像があり、そこには「農民革命的序幕」の文字も入っていて、范増の故郷には范増の像、亜父像、亜父公園があるとのこと。有名な韓信の「背水の陣」と陳余と張耳の「刎頸の友」も出て来てきました。勉強になります。

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